皆さんこんにちは。御紹介いただきました内閣総理大臣の岸田文雄です。今日は、休日にも関わらず、こうして大勢の皆さん方にこの会場に駆けつけていただきました。心から厚く御礼を申し上げます。 今、田中総長から御紹介いただきましたように、私は1982年法学部を卒業いたしました。そして、これもまた総長からお話がありましたが、早稲田大学においては、創立者であります大隈重信公 『おおくましげのぶ』の他、卒業生として、私を含めて8人の総理大臣が出ています。今日も森元総理もお越しでいらっしゃいますが、こうした総理大臣を輩出している。また、今の内閣においても、松野官房長官、また鈴木財務大臣、西村環境大臣、また渡辺復興大臣、こうした閣僚を早稲田大学は輩出しています。 また、今日は会場にも山本有二『やまもとゆうじ』先生を始め、国会稲門会『とうもんかい』の皆さんにもお越しいただいています。こうした政界のみならず、経済界、スポーツ、文化、学術、あらゆる分野で有能な人材を輩出している、この早稲田大学で今日こうして講演をさせていただく機会を頂きましたこと、大変光栄に思っています。田中総長を始め、早稲田大学関係者の皆様方に心から感謝を申し上げたいと思います。 さて、私が早稲田大学を卒業して、今年で41年の月日がたちました。当時のことを思い返しますと、正に幾つもの「まさか」、まさかこんなことは起こらないと思っていた、こうした幾つもの「まさか」を実感せざるを得ません。 私はまず受験で失敗を繰り返し、そして早稲田大学に入学いたしました。本来であるならば、そこで心を入れ替えて勉学に励ん「べんがくにはげん」だといえば、大変人生として美しいのでありましょうが。 しかし、やはり人生というのは道草、回り道の連続が常のようでありまして、私もそこからいろいろと道草、回り道をいたしました。大学時代、確かに多くの本は読みました。また、人生の中で最もたくさん映画を見た、これも大学の4年間でありましたし、また全国でナップザックを抱えて旅をする。特にあの頃は一人で旅をする、いろいろ物事を考える貴重な時間ももらいました。 こうやってみますと、本当に大学の授業に出たのかと思われるぐらいですね、自由な時間を過ごしました。 また、大学当時、友人にも恵まれました。例えば、元防衛大臣でありました、岩屋毅「いわや たけし」君は、大学時代から大変仲の良い友人でありました。それ以外にも、多くの友人に恵まれた、こういったことでありましたが、例えば岩屋君は当時から雄弁会「ゆうべんかい」に所属し、そしてあのときはたしか、鳩山邦夫『はとやま くにお』先生の事務所にもう秘書としての仕事もしていた。要は、当時から政治を志して大きな目標を持って生き生きと生活をしていた。そんな姿を思い返します。 ところが、一方、私は日々どうやって、これから人生生きていこうか、人生の目的を考える、こうした日々だった気がいたします。要は、大学時代も道草、回り道の連続であった、こんなことを思い返しています。このように、お世辞にも模範的『もはん』な大学生とはいえなかった自分があれから40年以上たって、こうして母校の大隈講堂で内閣総理大臣として講演をする。正に当時としては想像もできない、正に「まさか」であったわけであります。また、先ほど総長の方からG7広島サミットについて御紹介いただきましたが、G7広島サミットは多くの皆さんのお力添え『おちからぞえ』によって無事終了することができました。 私は、思い返すんですが、早稲田大学在学中、1979年でありましたが、日本で初めて先進国首脳会議東京サミットが開催された。1979年は、正に私は早稲田大学在学中でありました。当時はイラン革命後の第2次石油危機の中で、日本がG7の結束を保つ『けっそくをたもつ』ことができるか、こうしたサミットであり、当時の大平正芳『おおひらまさよし』総理が大変な苦悩の中で議長を務められた、こういったサミットでありました。私もニュースで大平総理の姿、議長を務められてる姿は鮮明に覚えています。しかし、当時、私は早稲田の学生でありました。ラーメン屋でラーメンをすすりながら、テレビに映るニュース映像、大平総理の姿をぼんやりと見ていたのを記憶しています。 あのときの学生が40数年たって、今度は自分がサミットの議長を務め、G7をまとめなければならない。こういった立場に立つ、もう、正に「まさか」の世界でありました。皆さんにまずお伝えしたいこと。これは人生の「まさか」、すなわち学生時代には思いもよらなかったことがこの先待ち受けている、こうしたことです。 もしかすると、今日この会場に来てくれている皆さんの中から政治家になり、そして内閣総理大臣になられる方もおられるかもしれません。ビジネスの世界で成功される方もおられるかもしれない。また、文化や芸術、スポーツの世界でスーパースターになる、こういった方もおられるかもしれない。 ただ、もちろんこの良いことばかりではないかもしれない。しかし、何が起こるかわからない未来に尻込み『しりごみ』することなく、希望と好奇心『こうきしん』を持って飛び込んでいってほしいと心から思います。人生の「まさか」、これを前向きに捉えて、希望を持って生きていく。それだけでも、この日々、人生随分気が楽になるのではないか、明るくなるのではないか。こんなことも感じます。 いろんな人生があるけれど、お互い、明るく前向きに生きていこうではありませんか。これが幾度『いくど』となく失敗を繰り返した人間からの皆さんへの最初のメッセージです。そして、その上で、今、日本の総理大臣という立場に立って、今の時代についてどんなふうに思っているのか、これについて申し上げたいと思います。 私は一昨年10月に、第100代内閣総理大臣として就任しました。あれから1年9か月(きゅうかげつ)、振り返って改めて思うことは、今、何十年に一度という難しい課題が次々と生じている、こうしたことです。例えば、3年余りにわたって、新型コロナとの戦い、世界が取り組んできました。日本においても先月、ようやく感染法上の分類が変わった。平時を取り戻すための大きな一歩を踏み出したわけです。 これから世界が経済を復活させ、社会を取り戻していかなければいけない。こういった大事なときを迎えているわけですが、しかしこの今、世界の経済を見るときに、気候変動ですとか、格差の拡大ですとか、人口問題、あるいは高齢化、こうした様々な大きな課題、地球規模の課題を抱えています。今までのこの資本主義のモデル、この経済のモデル。今までのままでは、持続可能性を維持することができないのではないか。 こういったことで、EU(欧州連合)もアメリカも、そして多くの主要国が、この経済のモデルを見直さなければいけない。こういった議論を行っています。EUにおいては次世代EU、あるいはアメリカにおいては現代サプライサイドエコノミーが言われるなど、要は経済、市場や競争に任せているだけでは、持続可能性を維持することができない。持続可能な経済をつくっていくために工夫をしなければ、せっかくコロナを乗り越えても経済を復活させ、持続させることができない。こういった経済の議論が進んでいます。 また、国際社会においてはポスト冷戦期が終わったと言われています。1989年、ベルリンの壁が崩壊してから後、米ソの冷戦期が終わった。新しい時代がスタートしたと言われています。そして、そこから今日まで、世界はグローバリゼーション、グローバル化の取組を進めることによって、平和や繁栄を獲得することができる。 こういった思いで、様々なグローバル化が進んできました。しかし、今、グローバル化を進めて競争を続けてきた世界、この中にあって、大国が正にむき出しの国益をさらけ出し、そして競争を始めてしまっている。また、国連の安保理の常任理事国、世界の平和と安定に責任を持つはずの大国が、国際法を破って他国を侵略する、こういった事態が起きている。 要は、従来のこの国際社会の秩序『ちつじょ』、これが揺るがされている。国際社会を安定させるために、いま一度秩序を考えていかなければいけない。こういった時代が来ています。今、私たちは歴史の転換点にあると思います。こうした時代の変化、世界規模の地殻『ちかく』変動が起こる中で、難しい課題、インフレですとか物価高騰ですとか、エネルギー危機、また食糧危機、さらには新型コロナを始めとする様々な医学的な問題、こうしたものに直面している。 これが今の時代だと思います。そして、こうした大きな変化を伴う時代においては、分断や対立がどんどん進んでいってしまう。しかし、だからこそ、分断から協調へ、そして対立から協力へ、こうした気持ち、精神を大切にしながら、分断から協調へという流れを先導する。こうした外交が今求められている。こうしたことを強く感じています。 総理大臣には、たくさんの仕事があります。経済、生活を守る教育や分権、様々な課題に取り組んでいかなければなりませんが、その中でもとりわけ外交については、よく「首脳外交」という言葉が使われるように、国のトップ、総理大臣の果たす『はたす』べき役割、これは極めて大きいものがあると感じています。 そして、この早稲田大学を私自身思い返すときに誇りに思うのは、早稲田大学のリベラルな自由な校風、そして多様性であると思っています。早稲田大学においては、最近は東京出身者も随分増えてきてしまったというお話も聞いてはおりますが、しかしもともとは地方出身者も多く、それぞれの地元に誇りを持ち、また最近は女子学生の皆さんの割合もどんどん増えていると聞いております。また、海外からの留学生もどんどんと増えている、すばらしい多様性を示してくれてると思っています。 母校愛『ぼこうあい』をしっかり持ちながらも、決して排他的『はいたてき』に集まるのではなく、多様性や包摂性『ほうせつせい』を大事にしながら、世界に挑戦してくれている。これが我が母校、早稲田大学であると感じています。今振り返りますと、この包摂性や多様性が大事だという私自身の国家観や外交政策の原点も、母校早稲田の気風の中で育まれた『はぐくむ』のではないかと思っています。 そして、最後に申し上げたいことは、私自身、失敗や道草や、あるいは回り道をしてきた人間として皆さん方に伝えたいこと。それは人生で経験するあらゆることに意味があるということであります。人生に無駄なことはない。失敗したと思っても、その失敗は必ず将来に意味をなすということ、こういったことを伝えたいと思います。学生の皆さん、是非今の早稲田での時間、あるいは人との交流。これを大切にしてください。もしかすると、 それが皆さんの将来の「まさか」につながっていくかもしれません。 皆さんの輝かしい将来を心から祈念『きねん』して、私の話を終わります。 御清聴ありがとうございました。
はい、皆さん、こんにちは、コアラ先生です。 今回のテーマは日本の タブーシリーズ 創価学会です。創価学会というと、日本で最もよく知られている宗教団体であり、身近に(みじかに)会員がいることもかなり多いと思います。 直接会員を受けたり、投票のお願いをされたことがある人もいるかもしれません。 なんとなく、熱量がすごいという印象はあるものの、どういった団体なのかということまでは知らない人が多いと思われ、宗教自体があまりポピュラーではない日本においては、あまり触れないほうがいいこと、というように捉えられているように感じます。 そこで、今回は、創価学会の誕生から現在に至るまでの歴史や、どういったことを信仰しているかという教義の面、そして、団体が抱えている問題などについて、解説していきたいと思いますので、ぜひ、最後まで見ていってください。 今回に限った話ではありませんが、当チャンネルで扱う内容は、外から確認できることを中心に、簡易的に纏めた解説になりますので、確定的な内容ではないということに、ご留意頂ければと思います。 それからこのチャンネルでは日々のニュースに纏わる(まつ)ことや、政治、経済の基本的な知識について、10分ぐらいで簡単に学べる動画を定期的に配信していますので、興味を持っていただけた方はぜひ、チャンネルを登録して、先生と一緒に学んでいきましょう。 ではまず、創価学会とは、どんな団体なのかという概要を手短に(てみじかに)確認していきます。 創価学会は仏教にルーツを持つ宗教法人で、明治以降に創設された新宗教の一つとみなされます。 公衆の会員世代数は827万世代とされ、実際にこの数字通りかどうかはともかくとして、日本 最大級のアクティブな信者数を誇る団体であることには、ほとんど異論はないと思われます。 政権与党である公明党が創価学会を強力な支持母体(ぼたい)とする政党であることもよく知られており、名実と共に、日本社会の一角(いっかく)を成す集団だと言えます。 あまり宗教が前面に出てこない日本において、信仰勢力である創価学会が、なぜここまでの勢力をもつに至ったなのか、まずは、その歴史を一気通貫で見ていきたいと思います。 創価学会の創設年は1930年であるとされていますが、設立当初の名称は『創価教育学会』であり、尋常(じんじょう)小学校の校長などを務めた教育者である、初代会長の牧口常三郎(まきぐちつねさぶろ)らが教育研究を目的として、設立した団体でした。 とは言え、宗教と無関係の組織だったわけではなく、牧口は創価教育学会を設立する数年前に、 仏教の一宗派である日蓮正宗に出会い、その教義に惹かれ(ひ)、入信しており、創価教育学会はこの教えを教育に活かすという性質を持っていたということで、1937には日蓮正宗に属する信徒団体となりました。 しかし、戦時下(せんじか)の思想、宗教の統制が強まる中で、牧口らは神社信徒を拒絶(きょぜつ)したことなどにより、投獄(とうごく)され、組織は壊滅、牧口は獄死(ごくし)します。 戦後、学会創設メンバーの一人である、戸田城聖(とだじょうせい)らが中心となり、組織が再建され、名称も創価学会へと変更しました。これが現在に直接繋がる団体です。 牧口の時代には、メンバーは教育者が中心で、研究や出版(しゅっぱん)が活動の柱(はしら)でしたが、戸田の時代には、信者中心の団体へと移り変わり、一般人の会員もどんどんと増えていきました。組織も整えられ、布教活動はさらに活発になり、非会員を説得して入信させる、『折伏』(しゃくぶく)の大規模な推進運動、折伏大行進などを実施し、急速に団体の規模を拡大させていきます。 一方で、強引(ごういん)な勧誘(かんゆう)が行われる場面も多数あったとされ、社会問題としても提起されるに至ります。 戸田の死後、第3代の会長となった池田大作(いけだだいさく)、現、創価学会名誉会長は、更なる信者獲得運動を推進し、いずれも公称の数ですが、会員数は1963までに360万世代、1970年頃までに700万世代を突破するなど、破竹(はちく)の勢いで信者を獲得していきました。 これらに並行して、団体の政治進出も進め、1961には団体内の文化部を基に、政治団体公明政治連盟(れんめい)を組織し、1964年にはこれを政党、公明党へと発展させ、翌年(よくねん)の参議院選挙では、11人もの当選者を出しました。 初期の活動の中では、選挙違反が相次ぎ、多数の末端会員が有罪判決を受けたこともあり、また、学会の批判を封じるよう、幹部から政界に働きかけるといったことが問題視されてきました。 こうした問題を対応して、学会と党の組織的な分離が行われていきました。70年代頃から、教義の解釈などにおいて、学会の独自路線もと言える動きが増え始め、本家(ほんけ)とも言える日蓮正宗との関係が悪化します。 一時は関係の改善も見られましたが、結局、決別(けつべつ)の運びとなり、1991年には、日蓮正宗は創価学会を破門(はもん)するに至ります。 お寺やお坊さんを持たない、一般信徒の団体であった創価学会は、それまで葬儀などの仏事(ぶつじ)の多くを日蓮正宗に依存しており、困った面はありましたが、友人葬や戒名不要という独自の教義解釈を見い出し、結果としてさならる脱皮(だっぴ)を遂げる(と)ことになりました。 ただこれまで、聖地(せいち)とされてきた、総本山大石寺(たいせきじ)を失ったことや、 伝統宗教とみなされる日蓮正宗との繋がりが断たれた(た)ことは、学会にとっては、 ただならぬ出来事であったのは間違いありません。 90年代は創価学会、公明党にとって、躍進(やくしん)の時代となりました。政界においては自民党が分裂(ぶんれつ)し、非自民の8党派による連立政権が誕生、公明党もこれに参画し、複数の大臣を輩出しました(はいしゅつ)。 この時代は長き続きせず、自民党が復権(ふっけん)しますが、その後も保守、革新同居 の自ー社ーさ政権など、混沌(こんとん)とした状況が続きました。 自民との足元はかつてほど盤石(ばんじゃく)ではなく、手堅い(てがたい)連立相手を探していました、そこでバディに選ばれたのが、新党の混乱を経て(へ)、再結集(けっしゅう)していた公明党でした。 かつては自民党と鋭く対立していた公明党ですが、憲法九条改正などを除けば、現実路線の中道政党として政策が重なる部分もあり、今や手を組むことへの抵抗は無くなっていました。 後述する、学会の超強力な選挙動員力によって、安定した議席を確保できるということで、これ以後、公明党は自民党にとって、なくてはならない政権安定剤となり、どれだけ自民党が単独で議席を伸ばしたとしても、ガッチリと組んだ手が離れることはありませんでした。 民主党の躍進により、自民党と一緒に一度下野(げや)したものの、復権以来、10年以上続けて与党の立場を固めています。 このような歩みを進めてきた創価学会ですが、ここからは教団の特徴についてもう少し掘り下げ(ほりさげ)ていきたいと思います。 歴史の中でも触れましたが、創価学会の根底(こんてい)には、仏教と日蓮の教えがあります。 公式HPでも日蓮大聖人(だいしょうにん)の仏法(ぶっぽう)を現代に展開したのが創価学会、と紹介されています。 鎌倉時代の僧、日蓮はお釈家様と、その悟り(さとり)の核心を記した(しる)とされる経典、 法華経(ほけきょう)こそが真実の教えであり、これを絶対的に拠り所(よりどころ)にすることを 説きました(と)。 この日蓮の教えの流れを汲む(く)仏教宗派は、日蓮系仏教とみなされ、創価学会の流れの元となった日蓮正宗も、その一つの宗派です。 破門によって、日蓮系仏教とは無関係の団体となった創価学会ですが、根本的な教義などは重なる部分があり、例えば、『南無妙法法華経なんむみょうほうほけきょう』の題目も唱え(となえ)、 祈ることを信仰の中心としています。 創価学会の活動と密接な関係にある教義が、广宣流布です。これが日蓮が説いた教えに源流がある ものですが、*广宣流布とは簡単に言えば、*法華経の教えや、その正しさを広めることで、創価学会では、これを日蓮の教えの根本精神として掲げています(かか) 宗教が布教(ふきょう)活動を行うのは、至って普通のことですが、核心の人物である日蓮自身がその意義を明確強調しているのは、特異な点であると言えます。 また、日蓮系仏教の一部では、布教対象を説得するような『折伏(しゃくぶく)』という積極的な布教方法が採られ、歴史パートでもできたように、創価学会でも特に拡大時に強調されていました。 ただ、そうしたアグレッシブな布教活動自体は他の新宗教を含めて行わているわけですが、伝統宗教をも凌ぐ(しのぐ)信者数を得た創価学会は、突出した存在であると言えます。 この背景について、多方面からの研究、分析が行わているとは、言い難い状況ですが、公明党の 得票数などから、都市部において多くの信者を獲得していたという傾向は確認されています。 それを踏まえた仮説(かせつ)として、以下のような分析があります。 戦後の高度経済成長期には、地方農村部から都市部や工業の就籍地代に向けて、大きな人口移動が動き、労働力を供給しました。これらの人々は伝統宗教とは縁遠くなり、また、新天地でコミュニティを持たない人も多くいました。 創価学会の教義で大切になるのは、圧倒的に法華経とそれを説いた日蓮の言行であり、霊の存在や、先祖供養を重視する、伝統仏教や他の宗教とは一線を画す(かくす)部分です。 現実世界において、積極的に他者を関わって生活し、自他共の幸福の実現を目指すという創価学会の考え方は、時代の流れによって、バックボーンを失っていた人々に受け入れられて行った。。。 という話な訳です。 もう一つ、創価学会を知る上で、重要な考え方が、『立正安国』です。 日蓮系以外の伝統仏教では、ひたすら念仏を唱え、極楽浄土(ごくらくじょうど)へいく、あるいは、ひたすら座禅(ざぜん)を組むなどといった個人の領域をフォーカスしている面がありますが、日蓮系の宗派では、個人のみならず、周りの人、さらには、社会、国までもが、法華経を正しく理解した安らかな国作りをする必要があるという発想を持っていて、日蓮自身が鎌倉幕府にこれを訴えかけたという行動に由来しています。 この際に日蓮は、多宗派を邪宗として批判し、これを排除するよう求めたという経緯もあり、言葉の根本的な意味からして、それほど平和的なものではなく、特に学会の拡大期の『折伏』では、徹底した邪宗批判が行われました。 社会からの批判も踏まえてか、現在の創価学会では、当時のような、多宗派への攻撃性を薄れ、『立正安国』の考え方は、自身、他者、社会を、より良い方向に持っていく、というようなニュアンスで重視されているように見えます。 創価学会を語る上で外せないのは選挙です。 先に示した通り、創価学会を支持母体とする公明党は、拡大当初から、地方議会そして国会の議席を獲得し、安定的に議員を輩出し続けています。 創価学会は他に類を見ない圧倒的な投票率を有する、最強選挙集団であり、相当精密な選挙対策や連れ出し投票などの組織力、さらには、非会員への投票呼びかけなど、通常では考えられないような徹底した実践行動がこの力を支えています。 そして、この背景には、先に挙げた*广宣流布、*立正安国などの考え方がると見てとることができます。このパワーは公明党のみならず、連立を組む自民党、特にその中でも支持基盤の弱い地方議員などにとっては、当落に直接的な影響がある程だと言われます。 宗教団体である、創価学会の政治参加は、しばしば政教分離の文脈から批判されることがあります。ただ、そもそも、日本における政教分離とは、主に国が特定の宗教を優遇してはいけない、という話が第一であり、宗教団体の政治参加自体は禁止されていません。
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20230626/1000094152.html
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